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川原寺(かわらでら)は、飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に所在した仏教寺院。金堂跡に弘福寺(ぐふくじ)が建てられている。 飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並び、飛鳥の四大寺の一に数えられた大寺院であったが、中世以降衰微した。川原寺跡は国の史跡に指定されており、現在はかつての中金堂跡に川原寺の法灯を継ぐ真言宗豊山派の寺院・弘福寺が建つ。 == 歴史 == === 創建 === 川原寺は、飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並ぶ飛鳥の四大寺に数えられ、7世紀半ばの天智天皇の時代に建立されたものと思われるが、正史『日本書紀』にはこの寺の創建に関する記述がない。そのため創建の時期や事情については長年議論され、さまざまな説があり、「謎の大寺」とも言われている。平城京遷都とともに他の三大寺(飛鳥寺、薬師寺、大官大寺)はその本拠を平城京へ移したが、川原寺は移転せず、飛鳥の地にとどまった〔唐で弘福寺と呼ばれた寺院が興福寺に改名した事例があるとして、藤原氏による興福寺創建に川原寺の移転という要素を含んでいたとする説もある(加藤優「興福寺と伝戒師招請」関晃先生古希記念会編『律令国家の構造』、吉川弘文館、1989年)。〕。平安時代最末期の建久2年(1191年)の焼失後は歴史の表舞台から姿を消し、発掘された瓦や塼仏(土で作り焼成した仏像)、堂塔の礎石以外には往時をしのばせるものはない。 『日本書紀』の白雉4年(653年)条には「僧旻の死去にともない、追善のため多くの仏像を川原寺に安置した」との記事があるが、『書紀』の編者は「川原寺でなく山田寺であったかもしれない」との注を付しており、『書紀』編纂の時点ですでにこの話はあやふやなものであったことがわかる。したがって、川原寺の史料上の初見として確実なものは、次に述べる『書紀』の天武天皇2年(673年)3月の記事である。それによれば、この時、「書生(書き手)を集めて川原寺において初めて一切経を書写した」という。この記事は、日本における一切経書写事業の初見として著名なものであるが、川原寺の名はこの記事で唐突に現れ、その創建事情については『書紀』は述べていない。そのため、川原寺の創建については複数の説がある。 『諸寺縁起集』には敏達天皇13年(584年)創建説を載せているが、川原寺跡からの出土遺物(瓦など)の年代から見て、そこまでさかのぼるとは考えられない。前述の『書紀』の記述から見て、天武天皇2年(673年)以前の創建であることは確かであると思われ、天智天皇が母の斉明天皇(皇極天皇重祚)が営んだ川原宮の跡地に創建したとする説が有力となっている。川原宮は、斉明天皇元年(655年)に飛鳥板蓋宮が焼失し、翌斉明天皇2年(656年)に岡本宮へ移るまでの間に使用された仮宮である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川原寺」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kawara-dera 」があります。 スポンサード リンク
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